こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。
皆さんは亀倉雄策という人物をご存知ですか?
戦前から戦後、そして平成の初めにかけて、日本のグラフィックデザインの最前線に立ち続けたデザイナーです。1964年の東京オリンピックでは、赤い日の丸の下に金色の五輪を置いたエンブレムを手がけ、公式ポスター4点もすべてデザインしました。NTTのシンボルマークの制作者としても、事典に名前が挙がります。
本記事ではそんな亀倉雄策の人生と作品についてご紹介します。亀倉雄策は1997年に亡くなった方で、作品の著作権が存続しているため、ポスターやロゴなどの作品画像は掲載していません。代わりに、図解と、関連する施設の外観写真、年表で内容を整理しています。
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Toggle亀倉雄策って?

亀倉雄策(かめくら ゆうさく)は、新潟県出身のグラフィックデザイナーです。グラフィックデザインとは、ポスターや雑誌、シンボルマーク、ロゴタイプなど、平面の上で言葉と形を組み立てて伝える仕事のことです。
亀倉の歩みは、図に示した5つの節目でたどると分かりやすくなります。1930年代に構成の理論を学び、戦前は海外向けの雑誌でアートディレクターを務めました。戦後はデザイナーの団体づくりに加わり、1960年代にはオリンピックという国家的な仕事を任され、晩年は協会の会長と雑誌の編集に力を注ぎました。
本記事では、亀倉の作品を「ひとつの名作」としてではなく、「時代ごとに役割を変えながら、一人のデザイナーが何を引き受けたか」という視点で読んでいきます。
基本情報
| 本名 | 亀倉雄策(かめくら ゆうさく) |
| 生年月日(没年月日) | 1915年4月6日〜1997年5月11日(82歳没) |
| 国籍・出身 | 日本/新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市) |
| 学歴 | 旧制日本大学第二中学校を卒業。1935年に新建築工芸学院で学ぶ |
| 分野 | グラフィックデザイン(ポスター、シンボルマーク、ロゴタイプ、雑誌のアートディレクション) |
| 傾向 | 直線と曲線を使った大胆な構成、写真を使った力強い表現(東京文化財研究所の記事による) |
| 師事した人物・影響を受けた人物 | 川喜田煉七郎(新建築工芸学院)、名取洋之助(日本工房)。カッサンドル、エル・リシツキー、バウハウスに傾倒したと、日本大百科全書は記しています |
1964年大会の競技施設を手がけた建築家については、当媒体の過去記事もあわせてどうぞ。
経歴と作品
少年期から新建築工芸学院まで(1915〜1937年)
亀倉雄策は1915年4月6日、新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)に生まれました。日本大百科全書によると、少年のころから雑誌『中央美術』や美術書を愛読していたそうです。
転機になったのは、旧制の日本大学第二中学校に通っていたころです。同じ事典は、この時期にフランスのポスター作家カッサンドルのポスターにふれ、グラフィックデザイナーを志したと伝えています。その後は、ロシアのエル・リシツキーのフォトモンタージュ(写真を切り貼りして構成する表現)や、ドイツのバウハウス(1919年に設立された造形学校)といった、ヨーロッパの新しいデザインと芸術に傾倒したとされています。
中学を出たあとの歩みは、資料によって書かれ方が少し違います。東京文化財研究所の物故者記事は、1935年に川喜田煉七郎が主宰する新建築工芸学院で、バウハウス流の基礎的な構成理論と方法論を学んだと記しています。一方、リクルートのクリエイションギャラリーG8が1998年に開いた回顧展の概要は、1933年に日大二中を卒業したあと、太田英茂が主宰する共同広告事務所に勤めたと書いています。広告の現場での仕事と、構成の理論の学び。この二つの経験が、のちの亀倉の仕事の土台になったのではないかと、編集部は考えます。
ここで学んだ「構成」の考え方は、のちの亀倉の作品を読み解く手がかりになります。東京文化財研究所は、亀倉の代表作を「直線と曲線を駆使し斬新な構成をしめした」ポスターと「写真を使用して力動感と競技の一瞬の緊迫感をストレートに表現した」ポスターと説明しています。どちらも、要素を絞って画面を組み立てる、構成の力に支えられた仕事です。
日本工房と『NIPPON』(1938年〜戦前)
1938年、亀倉は日本工房に入社します。写真家の名取洋之助が主宰していた制作集団で、日本大百科全書によれば、写真家の土門拳の紹介で名取と出会ったことがきっかけでした。東京文化財研究所の記事は、名取のもとで、デザイナーの河野鷹思、そして友人であった土門拳とともに、海外向けのグラフ雑誌の編集にたずさわったと伝えています。
亀倉が担った役割が、雑誌『NIPPON』のアートディレクターです。日本大百科全書は、この雑誌を「英独仏西4か国語併記のグラフ誌」と説明しています。4つの言語で日本を紹介する雑誌ですから、言葉に頼らず、写真と構成で伝える力が求められたはずです。ブリタニカ国際大百科事典は、この時期に亀倉が芝浦モートルのポスターで注目されたと記しています。
なお、日本工房への入社年は資料で割れています。東京文化財研究所、日本大百科全書、ブリタニカ国際大百科事典、百科事典マイペディア、クリエイションギャラリーG8の略歴は1938年とし、20世紀日本人名事典だけが1937年としています。本記事では、より多くの資料が一致し、東京文化財研究所の記録とも合う1938年を採ります。
戦後の出発:日宣美とニコンのポスター(1951年〜1950年代)
戦後の亀倉にとって大きな出来事のひとつが、1951年の日本宣伝美術会(日宣美)の創立です。東京文化財研究所の記事は、広告美術を単なる商品の宣伝から、社会的、文化的な意味も担うものにしようという目的で、全国のデザイナーを集めた団体だと説明しています。亀倉は、その呼びかけ人のひとりでした。
日宣美は、公募展を開くなどして、戦後の日本のグラフィックデザインの水準を上げ、裾野を広げたと、同じ記事は評価しています。ブリタニカ国際大百科事典は、亀倉が原弘らとともに日宣美を創立し、1970年の解散までその中心にいたと記しています。団体をつくることも、亀倉の大切な仕事でした。
個人の活動も続きます。JAGDAのウェブサイトに載る略歴によると、1953年には鎌倉の近代美術館で個展を開き、1955年には東京の「グラフィック’55」展に参加しています。
『ニコンのポスター』(1950年代〜60年代)
この時期の代表作として、東京文化財研究所が挙げているのが、日本光学(現在のニコン)のカメラの一連のポスターです。「直線と曲線を駆使し斬新な構成をしめした」と説明される仕事で、1950年代から60年代にかけての亀倉の才能を示すものとされています。
作品は、大阪中之島美術館にも収蔵されています。文化庁が運営する「アートプラットフォームジャパン」の記録には、亀倉雄策の『ニコンF 一眼レフの決定版!』(シルクスクリーン、紙、1959〜71年頃)が登録されています。制作年に幅があるのは、館の記録がそのように記しているためです。

ここで、亀倉が関わった2つの団体を整理しておきます。日宣美は1951年の創立、JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)は1978年の設立で、どちらにも亀倉は中心人物として加わりました。JAGDAについては、のちの節でくわしく触れます。
日本デザインセンターと東京オリンピック(1959〜1964年)
1960年前後に、亀倉の仕事は大きく動きます。ひとつは日本デザインセンター(NDC)への参加です。NDCの公式サイトの沿革は、1959年12月に、日本の広告デザインの質を高める創造集団として、デザイナー、コピーライター、フォトグラファーを集めて設立されたと記しています。出資企業は8社で、ニコンも含まれます。設立時の名前として、亀倉雄策、原弘らが並んでいます。
設立の年は、資料で書き方が分かれます。NDCの公式沿革は、会社の設立を1959年12月としています。一方、事典類やJAGDAの略歴は、亀倉が1960年に設立に参加したと記しています。本記事では、会社の設立はNDCの公式沿革にしたがって1959年12月とし、亀倉の参加は資料に合わせて1960年とも書かれている、と整理します。亀倉が専務取締役に就いたことは、リクルートのクリエイションギャラリーG8の展覧会概要に記載があります。同じ概要とJAGDAの略歴は、亀倉が1962年に独立して自らの事務所を設立したと記しています(事務所の名称は資料により室・研究室・研究所と割れるため、ここでは書きません)。
『東京オリンピック エンブレム』(1960年決定)
もうひとつが、1964年の東京オリンピックのエンブレムです。東京文化財研究所の「美術界年史」は、1960年6月10日に、東京大会のマークが決定し、組織委員会から発表されたと記録しています。
記事によると、日本独自のマークを考えるため、勝見勝を中心に研究が進められ、6人のデザイナーによる約40点のなかから、亀倉雄策のデザインが選ばれました。決まったデザインは、赤い日の丸を上部に置き、その下に金色で五輪のマークと「TOKYO1964」の文字を入れたものです。カラーテレビや色刷りの場合は、五輪に五色を使ってもよいことも、あわせて決められました。

図のとおり、エンブレムの要素は3つだけです。赤い円、金色の五輪、そして文字。要素をここまで絞ったことこそが、亀倉のデザインの核心ではないかと、編集部は考えます。
『東京オリンピック 公式ポスター』(1961〜1963年ほか)
東京大会の公式ポスターは、第1号から第4号まであります。新潟県立近代美術館は、そのすべてを亀倉雄策がデザインしたと説明しています。同美術館の資料では、第1号が1961年、第2号が1962年、第3号が1963年です。
第2号と第3号は、写真を使ったポスターです。同美術館は、フォトディレクションを村越襄、写真を早崎治が担当したと記録しています。東京文化財研究所は、東京オリンピックのポスターを、写真を使って力動感と競技の一瞬の緊迫感をストレートに表現したものと説明しています。

ここに示した役割分担は、デザイナーが一人ですべてを描くのではなく、写真家やフォトディレクターと組んで画面をつくる仕事だったことを教えてくれます。デザイナーの役割は、描くことだけではなく、全体を見て決めることにあると、編集部は考えます。
東京文化財研究所によれば、東京オリンピックのポスターは、1966年の第1回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレで芸術特別賞を受け、国際的にも高い評価を得ました。

大会の舞台となった施設のひとつが、国立代々木競技場です。運営する日本スポーツ振興センターの公式サイトは、建築家・丹下健三の代表作で、1964年の東京オリンピック開催のために建てられたと紹介しています。亀倉のエンブレムやポスターと同じ大会のために、こうした施設も整えられました。
NDCの公式沿革は、1962年にオランダのアムステルダムで、1963年にはニューヨークとロンドンでNDC展を開いたことも記録しています。同じ沿革は、1964年に東京オリンピックの各部門のデザインに協力し、組織委員会から感謝状を受けたとも記しています。大会は、デザイナーたちが力を合わせて取り組んだ、大きなデザインの場でもありました。
万博、札幌、そしてNTT(1960年代後半〜1980年代)
東京オリンピックのあとも、亀倉の仕事は続きます。東京文化財研究所の物故者記事は、1970年の万国博覧会と、1972年の札幌オリンピック冬季大会の公式ポスターを手がけ、内外にその名が広く知られるようになったと伝えています。20世紀日本人名事典は、名古屋デザイン博のポスターも手がけたとしています。
万博のポスターの年については、資料で違いがあります。東京文化財研究所は1970年の万国博覧会の公式ポスターとし、日本大百科全書は「大阪万国博覧会ポスター」を1967年としています。どのポスターを指すかで年が分かれる可能性があるため、本記事では年を特定せず、大阪万博のポスターも手がけたと書くにとどめます。
札幌大会については、混同しやすい点があります。NDCの公式沿革は、札幌冬季オリンピックのシンボルマークを永井一正がデザインしたと記しています。亀倉が手がけたのは、東京文化財研究所が記す公式ポスターです。
『NTTシンボルマーク』
亀倉の名前とともに語られるもうひとつの仕事が、NTT(日本電信電話)のシンボルマークです。ブリタニカ国際大百科事典は主要作品に「日本電信電話 NTTシンボルマーク」を挙げ、デジタル版日本人名大辞典もNTTシンボルマークで知られるとしています。
NTTの公式サイトは、このマークを「ダイナミックループ」と呼び、1985年の民営化以来、引き継がれてきたと説明しています。一本の曲線は企業のダイナミズムを表し、上部の小さなループは、お客さまや社会の声を企業活動の原点として吸収する姿勢を表すそうです。新潟県立近代美術館の展覧会資料も、亀倉を東京オリンピックのポスターやNTTのマークなどを手がけたデザイナーとして紹介しています。ただし、NTTの公式ページには、デザイナーの名前は書かれていません。亀倉の制作者としての位置づけは、事典類と美術館資料の記述によるものです。
一本の曲線で表すこのマークは、東京文化財研究所が評した「直線と曲線を駆使した構成」の延長線上にあるように、編集部には見えます。ただしこれは編集部の見方で、亀倉本人の言葉ではありません。
評価と受賞(1961年〜1994年)
こうした仕事に対して、亀倉は数多くの賞を受けました。主なものを表にまとめます。
| 年 | 受賞・栄典 | 確認した出典 |
|---|---|---|
| 1961年 | 芸術選奨(第11回、1961年3月発表) | 東京文化財研究所「美術界年史」、ブリタニカ国際大百科事典 |
| 1966年 | 第1回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ 芸術特別賞 | 東京文化財研究所「物故者記事」 |
| 1980年 | 紫綬褒章 | 日本大百科全書、ブリタニカ国際大百科事典 |
| 1984年 | 朝日賞(昭和58年度)、毎日芸術賞(第25回) | 東京文化財研究所「美術界年史」 |
| 1991年 | 文化功労者 | 東京文化財研究所「美術界年史」ほか |
| 1993年 | ニューヨークADC、東京ADCの殿堂入り | JAGDA |
| 1994年 | ワルシャワ美術アカデミー名誉博士 | JAGDA |
朝日賞の選考理由として、東京文化財研究所の記録は「現代日本のデザインを世界的水準に高めた功績」と記しています。デザイナーとして作品をつくっただけでなく、日本のデザイン全体の水準を引き上げた人物として評価されたことが分かります。
JAGDAの初代会長(1978〜1994年)
1978年、亀倉はJAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)の設立に加わります。JAGDAの公式サイトの沿革によれば、同年8月26日に設立総会が開かれ、会員は705名でした。亀倉は初代会長に就き、1994年6月まで務めました。1984年4月2日には、法人団体としての設立総会が開かれ、社団法人になりました。
JAGDAの沿革には、この時期の取り組みが並びます。1981年には年鑑『日本のグラフィックデザイン』(現在の『Graphic Design in Japan』)が創刊され、1983年にはJAGDA新人賞が創設されました。デザイナーが作品を発表し、新人を育て、制作料金の目安を整える。個々のデザイナーの仕事を支える仕組みを、協会として一つずつ整えていったことが分かります。
JAGDAの略歴によれば、亀倉は会の拡大と整備、そして1984年の法人化に力を尽くしました。1981年にJAGDAが国際グラフィックデザイン団体協議会(Icograda)に加盟した際には、フィンランドのヘルシンキで開かれた総会に、JAGDAの代表として出席しています。
個人の仕事も続いていました。JAGDAの略歴は、1983年に東京で個展を開き、作品集『The Works of Yusaku Kamekura』(六耀社)を出版したと記しています。日本大百科全書も、同じ1983年の著作として『亀倉雄策のデザイン』を挙げています。翌1984年2月には、毎日芸術賞(第25回)の美術関係の受賞者に亀倉が選ばれ、東京文化財研究所の記録には「亀倉雄策デザイン展」と添えられています。
雑誌『Creation』と晩年(1989〜1997年)
晩年の亀倉がライフワークとしたのが、デザイン誌『Creation(クリエイション)』の編集です。新潟県立近代美術館の展覧会資料によれば、この雑誌は季刊で、1989年から5年間にわたりリクルートから発行され、創刊号から全20号で終えると宣言されていました。作家や作品の選定から誌面の構成まで、すべての工程を亀倉自身が行ったそうです。
創刊号のまえがきで、亀倉は編集方針を次のように述べています。同じ資料から、原文のまま引きます。
古くても新しくてもいいものはいい。デザインの本道でも、脇道でも、路地でもいい。有名も無名もない。優れた才能と芸術家としての力量を重視するだけである
掲載された作家は、日本をはじめ、アメリカ、ポーランド、スイス、イタリアなど、さまざまな国と地域に広がり、グラフィックデザイン、油彩、イラストレーション、陶磁器と、ジャンルも多岐にわたります。同じ資料によると、亀倉自身の作品は、編集者としての客観性を保ちたいという意向から、『Creation』には収録されませんでした。
亀倉の死後、追悼号として第21号が発行されました。田中一光、永井一正、福田繁雄の監修で、亀倉の業績がまとめられたと、同資料は伝えています。自分の作品は載せず、他の作家を並べる。作り手であり続けながら、同時に他者の仕事を世に紹介する編集者でもあったことが、この雑誌から分かります。

この美術館が2015年11月から2016年1月に開いた生誕100年の展覧会では、『Creation』に取り上げられた約80名の作家の作品が紹介され、展示作品と資料は約310点に及んだと、同館の資料にあります。亀倉のデザイン観を、他の作家の作品を通して見せようとする、展覧会でした。
晩年の栄誉も続きます。1991年の文化功労者、1993年のニューヨークADCと東京ADCの殿堂入り、1994年のワルシャワ美術アカデミー名誉博士。1996年には、東京国立近代美術館フィルムセンターで、戦後の代表作93点からなる「亀倉雄策のポスター」展が開かれました。そして亀倉は、1997年5月11日に、東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなりました。82歳でした。
没後に受け継がれたもの

亀倉の仕事は、図に示した5つの方向に広がっていました。ポスターとシンボルマークという「つくる仕事」、雑誌のアートディレクションと『Creation』の編集という「伝える仕事」、そして日宣美とJAGDAという「集める仕事」です。
没後の1999年、「亀倉雄策賞」が設けられました。JAGDAの公式サイトによると、この賞は遺族の寄付により設立され、1999年から毎年、年鑑『Graphic Design in Japan』の応募作品のなかから、年齢やキャリアを問わず最も輝いている作品とその制作者に贈られます。東京文化財研究所の記録では、1999年5月に第1回の受賞者が決定し、田中一光が選ばれました。対象は「サルバトーレ・フェラガモ展」のグラフィックデザインと空間デザインでした。2026年の第28回は、田部井美奈が受賞しています(JAGDA公式サイトによる、2026年10月時点の情報)。
2020年には、新潟県立近代美術館で、JAGDAの設立40周年にあわせた企画がありました。五泉ニット工業協同組合が制作した、亀倉雄策のポスターのニット作品が展示されたと、同館の報道資料は伝えています。ポスターという平面の仕事が、編み物という別の素材で再び形になる。作品がいまも、さまざまな形で参照されていることが分かります。
年表で整理
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1915年 | 4月6日、新潟県西蒲原郡吉田町に生まれる |
| 1935年 | 新建築工芸学院で、バウハウス流の基礎的な構成理論を学ぶ |
| 1938年 | 日本工房に入社。『NIPPON』のアートディレクターを務める |
| 1951年 | 日本宣伝美術会(日宣美)の創立に参画 |
| 1953年 | 鎌倉の近代美術館で個展 |
| 1959〜60年 | 日本デザインセンター(NDC)の設立に参加(NDC公式の設立は1959年12月、事典類は1960年) |
| 1960年 | 6月、東京オリンピックのエンブレムに選ばれる |
| 1961〜63年 | 東京オリンピック公式ポスター第1〜3号 |
| 1962年 | 独立し、自らの事務所を設立 |
| 1966年 | 第1回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレで芸術特別賞 |
| 1978年 | JAGDA設立。初代会長に就任(〜1994年6月) |
| 1983年 | 東京で個展、作品集を出版 |
| 1989年 | 『Creation』創刊(全20号) |
| 1991年 | 文化功労者 |
| 1997年 | 5月11日、東京都中央区で死去(82歳) |
| 1999年 | 亀倉雄策賞が創設される |
まとめ
いかがだったでしょうか。亀倉雄策の歩みを、公式な記録や事典をたどりながら見てきました。
少年のころにカッサンドルのポスターにふれ、新建築工芸学院で構成を学び、日本工房の『NIPPON』でアートディレクターを務める。戦後は日宣美の創立に加わり、ニコンの一連のポスターで才能を発揮する。1960年には東京オリンピックのエンブレムに選ばれ、4点の公式ポスターを手がける。そしてJAGDAの初代会長として協会を育て、晩年には『Creation』で他の作家を世に紹介しました。
赤い円と金色の五輪というシンプルな形から、写真家やフォトディレクターと組んだポスター、他の作家を並べた雑誌『Creation』まで、亀倉の仕事に共通するのは、要素を絞り、全体を見て決めるという姿勢だったのではないかと、編集部は考えます。ポスターやロゴを目にする機会があれば、何が省かれ、何が残されているのかを、ぜひ見比べてみてください。
Euphoric " " の視点
亀倉雄策が晩年にライフワークとした雑誌『Creation』は、創刊号のまえがきで、編集方針をはっきり言葉にしていました。「古くても新しくてもいいものはいい」「有名も無名もない」。創刊号から全20号で終えることも宣言されていました。
作家や作品の選定は、すべて亀倉自身が行っています。そのうえで亀倉は、編集者としての客観性を保ちたいという意向から、自分の作品を『Creation』に収録しませんでした。選ぶ権限を一人が持つからこそ、何を基準に選ぶのかを先に示し、自分を選ぶ対象から外したのだと考えます。
人や作品を選ぶ立場に立つと、基準は胸の内にしまっておきたくなるものかもしれません。けれども基準を先に示しておけば、選ばれた側にも読む側にも、その選び方を信頼する手がかりが生まれます。『Creation』は、選ぶ仕事の信頼は、基準を言葉にして差し出すところから始まると教えてくれるように思います。
この作品を見に行くには
記事で紹介した作品や資料に関わる館と記録は、次のとおりです(2026年10月時点)。展示は時期により変わり、いつでも見られるとは限りません。最新の情報は各公式サイトでご確認ください。






