【徹底解説】『睡蓮』とは?モネが30年近く描いた池と大装飾画を解説!

【徹底解説】『睡蓮』とは?モネが30年近く描いた池と大装飾画を解説!
『睡蓮』の徹底解説(『睡蓮』/パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

アートコンシェルジュ|最初の一枚から、一生のコレクションまで。無料で相談する

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんは『睡蓮』という作品をご存知ですか?

フランスの画家クロード・モネが、自宅の庭につくった池に浮かぶ睡蓮を、晩年までくり返し描き続けた連作です。フランス語の題名は『Nymphéas(ニンフェア)』で、英語では『Water Lilies』と呼ばれます。日本語では「睡蓮(すいれん)」のほか、「モネの睡蓮」「睡蓮の池」といった呼び方もよく使われます。

『睡蓮』は1枚の絵の名前ではありません。同じ池を題材にした、数多くの作品の総称です。パリのオランジュリー美術館には、楕円形の二つの部屋の壁をぐるりと囲む大装飾画があり、日本でも東京の国立西洋美術館や香川県・直島の地中美術館などで見ることができます。

本記事ではそんな『睡蓮』について、描かれているもの・見どころ・歴史をご紹介します。

『睡蓮』って?

クロード・モネ『睡蓮』(1916年)
クロード・モネ『睡蓮』(1916年)国立西洋美術館(松方コレクション)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

東京・上野の国立西洋美術館が所蔵する『睡蓮』(1916年)です。画面には岸も空も描かれず、水面と、そこに浮かぶ睡蓮の葉と花、水に映り込んだ影だけが広がっています。縦横ともに約2メートルある大きな作品で、日本で見られる『睡蓮』のなかでもよく知られた一枚です。

連作全体については、所蔵館によって数え方が異なります。ロンドンのナショナル・ギャラリーの解説によれば、モネが「水の庭」を描いたカンヴァスはおよそ250点、そのうち約200点が水面の睡蓮を描いたものです。オランジュリー美術館は、30年近くにわたる連作全体を、300点近い絵画(そのうち40点以上の大きなパネル)としています。

基本情報

作品名睡蓮(すいれん)。原題は『Nymphéas』(フランス語)、英題は『Water Lilies』。「モネの睡蓮」とも呼ばれます。同じ主題の連作の総称で、個々の作品には『睡蓮の池』『睡蓮、柳の反映』などの題名も付いています
作者クロード・モネ(Claude Monet、1840〜1926年)
制作年1890年代末から1926年まで。ジヴェルニーの庭の公式サイトによれば、モネが睡蓮を描きはじめたのは1897年です
技法・素材油彩、カンヴァス
サイズ作品ごとに異なります。国立西洋美術館の『睡蓮』(1916年)は200.5×201cm。オランジュリー美術館の大装飾画は8つの構成からなり、高さはどれも約2メートル、幅はそれぞれ異なります
所蔵世界各地の美術館に分かれて所蔵されています。代表的な所蔵先は、オランジュリー美術館(パリ)、マルモッタン・モネ美術館(パリ)、国立西洋美術館(東京)、地中美術館(香川県・直島)、アサヒグループ大山崎山荘美術館(京都府)など
展示場所オランジュリー美術館の大装飾画は、二つの楕円形の展示室に設置されています。そのほかの館では、展示替えや貸し出しによって見られない時期があります

作者のクロード・モネと、モネが中心となった印象派については、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

クロード・モネとは?出身・本名・代表作と生涯をわかりやすく解説

印象派とは?特徴・歴史・代表的な画家をわかりやすく解説

何が描かれている?見どころを解説

モネが自分でつくった「水の庭」

『睡蓮』に描かれている池は、モネが自分の手で広げ、整えた庭の池です。

モネが暮らしたのは、パリの西およそ80キロ、ノルマンディー地方の村ジヴェルニーです。モネの家と庭の公式サイトによれば、モネは1883年から亡くなる1926年までこの地で暮らし、1890年に家と土地を買い取りました。

1893年、モネは庭(クロ・ノルマン)の奥、鉄道の線路を越えた向こう側の土地を手に入れます。ナショナル・ギャラリーの解説によれば、その土地にはもともと小さな池がありました。モネはエプト川の小さな支流(リュ)から水を引き込んで池を広げ、ここがのちに「水の庭」と呼ばれる場所になりました。池のまわりには竹、イチョウ、カエデ、ボタン、ユリ、シダレヤナギなどが植えられ、池の底には睡蓮が植えられました。

ナショナル・ギャラリーの解説によると、モネは池にもともとあった野生の睡蓮を、園芸家ラトゥール=マルリアックが生み出した、黄・ピンク・白・紫の交配種に植え替えました。池はその後、1901年と1904年にも広げられ、水の庭はおよそ3倍の大きさになったといいます。

モネ自身は、こんな言葉を残しています。「水が好きだが、花も好きだ。だから池に水を満たしたあと、植物で飾ろうと考えた。カタログを手に取って、思いつくままに選んだ。それだけのことだ」。庭の公式サイトが紹介している言葉です。

見どころ1:日本風の太鼓橋

クロード・モネ『睡蓮の池』(1899年)
クロード・モネ『睡蓮の池』(1899年)ナショナル・ギャラリー(ロンドン)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

初期の『睡蓮』でよく知られているのが、池にかかる弓なりの橋を描いた作品です。ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵するこの作品は1899年に描かれ、大きさは88.3×93.1cmです。

ナショナル・ギャラリーの解説によれば、モネは池の西の端にアーチ形の歩道橋を架けました。この橋は、モネが集めていた浮世絵に描かれた橋に着想を得たもので、モネの所蔵品には歌川広重の『亀戸天神境内』も含まれていました。絵のなかで橋は画面の左右いっぱいに渡され、水の上に浮かんでいるように見えます。

ジヴェルニーの庭の公式サイトによれば、モネはこの橋を、日本の伝統的な赤ではなく、緑色に塗りました。いまも庭を訪れると、藤の絡まる緑の橋を見ることができます。

浮世絵とモネの関係に興味がある方は、歌川広重や浮世絵の鑑賞についての記事もあわせてどうぞ。

【徹底解説】歌川広重ってどんな人?人生と作品について徹底解説

【アート鑑賞解説】美術初心者必見!浮世絵がおもしろくなるポイントを解説!

見どころ2:空を描かずに空を描く

冒頭の国立西洋美術館の『睡蓮』をもう一度見てみてください。この絵には岸辺も空も描かれていません。それでも、画面のあちこちに青や白、紫の色が揺れています。これは、水面に映った空や雲、まわりの木々の影です。

国立西洋美術館の解説は、水面が天候や時間帯によって表情を変えることがモネの興味をつなぎとめた、と説明しています。1916年には、モネはすでに20年近く睡蓮を描き続けていました。

1899年の太鼓橋の作品では、橋や岸の草木が画面の大部分を占めていました。そこから年を追うごとに、モネの視線は水面へと近づいていきます。やがて画面は、水面だけで埋め尽くされるようになりました。

見どころ3:花と影の大胆な省略

クロード・モネ『睡蓮』(1914〜17年)部分
クロード・モネ『睡蓮』(1914〜17年)部分 ハッソ・プラットナー・コレクション(ポツダムのバルベリーニ美術館に長期貸与)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

晩年の『睡蓮』に近づいてみると、花の一輪一輪は細かく描き込まれていません。白や黄、緑の絵の具が、厚く、すばやく置かれています。離れて見ると睡蓮の花に見えるのに、近くで見ると絵の具の塊とタッチの重なりが目に入ります。

国立西洋美術館の解説は、『睡蓮』(1916年)の花や水の影の大胆な単純化が、のちの表現主義や抽象絵画を予告するものだと述べています。オランジュリー美術館も、アメリカの批評家クレメント・グリーンバーグが、モネの晩年の作品を、画面全体を均質に覆う「オールオーヴァー」の絵画や、ニューヨーク派と結びつけたことを紹介しています。

見どころ4:見る人を囲む大装飾画

クロード・モネ『睡蓮:柳のある明るい朝』(1914〜26年)
クロード・モネ『睡蓮:柳のある明るい朝』(1914〜26年)オランジュリー美術館/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

『睡蓮』の連作の到達点とされるのが、パリのオランジュリー美術館にある大装飾画です。上の作品はそのうちの一つ『柳のある明るい朝』(原題『Le Matin clair aux saules』)で、三枚のパネルをつなげた、高さ200cm、幅1275cmの横長の画面です。2本の大きな柳の幹が水面を区切り、乳白色の空が水に映っています。

オランジュリー美術館によれば、大装飾画は8つの構成からなり、高さはどれも約2メートル、幅はそれぞれ異なります。描かれた面積はおよそ200平方メートル、見る人のまわりを取り囲む長さは100メートル近くになります。

8つの構成には、『雲』『緑の反映』『日没』『朝』『二本の柳』『柳のある明るい朝』『柳のある朝』『木々の反映』といった題名が付いています。モネは展示室の形や広さ、作品どうしの間隔、見る人の動き方まで細かく計画しました。二つの楕円形の部屋について、モネは「終わりのない全体、水平線も岸辺もない水の広がりという幻影」を生み出すと語っています。

オランジュリー美術館の解説によれば、1916年、モネは天井から光が入る大きなアトリエを建てています。第一次世界大戦のあいだ、モネは季節に応じて屋外と、このアトリエとを行き来しながら制作を続けました。

見どころ5:二つの部屋と8つの構成

オランジュリー美術館の作品ページをもとに、8つの構成を部屋ごとに整理すると、次のようになります。どの作品も制作年は「1914年から1926年のあいだ」とされ、複数のパネルをつなげたカンヴァスが壁に貼り付けられています。

展示室作品名(原題)大きさ
第1室・北の壁雲(Les Nuages)高さ200cm×幅1275cm(3枚のパネル)
第1室・南の壁朝(Matin)高さ200cm×幅1275cm(3枚のパネル)
第1室・西の壁日没(Soleil couchant)高さ200cm×幅600cm(1枚のパネル)
第1室緑の反映(Reflets verts)高さ200cm×幅850cm(2枚のパネル)
第2室・北の壁柳のある朝(Le Matin aux saules)高さ200cm×幅1275cm(3枚のパネル)
第2室・南の壁柳のある明るい朝(Le Matin clair aux saules)高さ200cm×幅1275cm(3枚のパネル)
第2室・西の壁木々の反映(Reflets d’arbres)高さ200cm×幅850cm(2枚のパネル)
第2室二本の柳(Les Deux Saules)高さ200cm×幅1700cm(4枚のパネル)

それぞれの作品ページには、短い解説も付いています。いくつか紹介します。

『雲』

モネは生涯を通じて、最初の師であるウジェーヌ・ブーダンから学んだ空と雲の表現を考え続けました。『雲』では、ばら色を帯びた空の移り変わりを、鏡のような池の水に映る姿だけで表しています。空そのものは一度も描かれていません。

『日没』

8つのなかでいちばん西に置かれた作品で、夕日が沈む場面を表しています。オランジュリー美術館は、この作品をおそらく全体のなかで最も自由で、最も華やかな絵と評しています。大胆な筆づかいと色の選び方は、20世紀の抽象絵画の画家たちを含む、多くの世代の画家たちから称賛を受けてきました。

『緑の反映』

ジヴェルニーの池の水だけを描いた作品です。オランジュリーのすべての作品と同じく水平線がなく、さらにこの作品では岸辺も意図して描かれていません。水面があることは、そこに浮かぶ睡蓮の花と葉によってだけ伝わります。

『二本の柳』

長さ17メートル、8つのなかで最も大きな構成です。特定の見どころをつくらず、平らな池の水面をパノラマのように見渡す画面になっています。リズムをつけているのは、両端に立つ2本の細い木の幹だけです。楕円形の壁の形が、絵のなかに入り込んだような感覚を強めています。

『睡蓮』の歴史

最初の睡蓮から「水の風景」の連作へ(1897〜1909年)

ジヴェルニーの庭の公式サイトによれば、モネが睡蓮を描きはじめたのは1897年です。オランジュリー美術館によると、円形の装飾画というアイデアが初めて現れたのも1897年でした。

最初のころの作品は、1899〜1900年ごろの『睡蓮の池』のように、太鼓橋と池を描いたものです。ナショナル・ギャラリーは、この太鼓橋の作品群を、モネの画業の転換点と位置づけています。続いて1903〜1908年には、橋や岸を画面から外し、水面に焦点を当てた『水の風景』と呼ばれる作品群が描かれました。

1909年、パリのデュラン=リュエル画廊で、展覧会「睡蓮、水の風景の連作」が開かれました。庭の公式サイトの年譜によれば、会期は5月6日から6月5日まで、出品は48点でした。同じ年、モネは批評家ギュスターヴ・ジェフロワに、睡蓮の主題を「壁に沿って」並べたいと語っています。

大装飾画への取り組み(1914〜1920年)

オランジュリー美術館によれば、モネが大きな画面での制作を再開したのは1914年、74歳のときです。同じ年の6月には「大きな仕事に取りかかった」と手紙に書いています。1916年には、天井から光が入る大きなアトリエを建てました。

国立西洋美術館の『睡蓮』(1916年)も、この時期に描かれた作品です。

国家への寄贈とクレマンソー(1918〜1922年)

大装飾画を国に贈るきっかけをつくったのは、政治家ジョルジュ・クレマンソーです。オランジュリー美術館によると、二人は1860年に知り合い、いったん疎遠になったあと、クレマンソーがジヴェルニーの近くに家を買った1908年から再び親しくなりました。

1918年11月12日、第一次世界大戦の休戦協定の翌日に、モネはクレマンソーに手紙を書き、二枚の装飾パネルを国に贈りたいと申し出ました。手紙には「もうすぐ二枚の装飾パネルを仕上げるところで、これに勝利の日の日付で署名したい」とあります。

寄贈の話はその後ふくらんでいきます。1920年9月には、モネと美術行政の責任者ポール・レオンとのあいだで、12枚のパネルを寄贈することで合意しました。そして1922年4月12日、19枚のパネルを国に寄贈する証書が交わされました。ただしモネは出来に満足せず、亡くなるまで手もとに置いて手を加え続け、そのあいだに一部のパネルを自ら壊しています。

オランジュリー美術館の開館(1927年)

モネは1926年12月、86歳でジヴェルニーで亡くなりました。その数か月後の1927年、大装飾画はモネの構想どおりにオランジュリー美術館に設置されます。展示室の設計には建築家カミーユ・ルフェーヴルがあたり、クレマンソーが計画を支えました。オランジュリー美術館とジヴェルニーの庭の公式サイトの年譜は、どちらも開館の日を1927年5月17日としています。

ところが、オランジュリー美術館の解説によると、開館当初、一般の関心は高くありませんでした。その後の数十年間は、企画展のときに作品が仕切り壁で隠されることさえあったといいます。

再評価と「印象派のシスティーナ礼拝堂」(1950年代〜現在)

見方が変わりはじめるのは1950年代です。1952年、画家アンドレ・マッソンは、オランジュリーの展示室を「印象派のシスティーナ礼拝堂」と呼びました。1955年には、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が大きな『睡蓮』の一枚を購入して展示しています。こうしてモネの晩年の作品は、20世紀の新しい絵画とのつながりのなかで見直されていきました。

1960年代の改修工事では、モネが望んだ自然光が入らなくなってしまいました。2006年に改修が終わり、展示室はもとの姿を取り戻しています。オランジュリー美術館は大装飾画を、20世紀前半の最大級の記念碑的な絵画の一つとしています。

マルモッタン・モネ美術館の『睡蓮』(1966年〜)

オランジュリー美術館とは別に、パリで『睡蓮』をまとめて見られるのが、マルモッタン・モネ美術館です。同館の解説によれば、モネの息子ミシェル・モネは、この美術館を唯一の受遺者に指定していました。ミシェルが1966年に亡くなると、100点を超えるモネの作品が美術館のコレクションに加わりました。

そのなかには、ほとんどが一度も公開されたことのない、大きな『睡蓮』の作品群が含まれていました。邸宅の部屋では小さすぎたため、1970年、庭の地下に新しくつくられた展示室で公開されるようになりました。同館は、これらの作品を含むモネのコレクションを、世界最大のものとしています。

なお、マルモッタン・モネ美術館は、「印象派」の名の由来となった『印象・日の出』を所蔵する美術館でもあります。

松方幸次郎と日本の『睡蓮』

日本と『睡蓮』のつながりで欠かせないのが、実業家の松方幸次郎です。国立西洋美術館の作品記録によれば、同館の『睡蓮』(1916年)は、1921年12月ごろに松方幸次郎がモネ本人から購入しました。1944年にフランス政府に接収されたのち、1959年に返還され、国立西洋美術館の所蔵となりました。

『睡蓮、柳の反映』(1916年)

クロード・モネ『睡蓮、柳の反映』(1916年)
クロード・モネ『睡蓮、柳の反映』(1916年)国立西洋美術館(松方幸次郎氏御遺族より寄贈)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

もう一点、松方幸次郎が1921年12月ごろにモネから購入した大作が、『睡蓮、柳の反映』です。国立西洋美術館の作品記録によると、大きさは199.3×424.4cmで、画面の上の部分が失われています。

この作品も1944年にフランス政府に接収されました。その後、2017年12月に日本へ移され、松方幸次郎の遺族から国立西洋美術館へ寄贈されました。上半分が大きく欠けた画面は、長い時間を経てたどり着いた作品の来歴を、そのまま伝えています。

モネの没後100年(2026年)

モネが亡くなった1926年から数えて、2026年は没後100年にあたります。京都府大山崎町のアサヒグループ大山崎山荘美術館では、開館30周年と重ねて「開館30周年記念・没後100年 クロード・モネ展」が2026年3月20日から2027年4月11日まで開かれています(第1期は9月6日まで、第2期は9月19日から)。同館は『睡蓮』5点を含むモネの作品8点を所蔵しており、会期中は展示替えをしながら公開しています。同館の案内によれば、第2期で一度に見られるのは8点のうち6点です。

『睡蓮』のよくある疑問

『睡蓮』はどこで見られる?

もっともまとまった形で見られるのは、パリのオランジュリー美術館です。大装飾画の8つの構成が、二つの楕円形の展示室に設置されています。同じパリのマルモッタン・モネ美術館も、モネの息子ミシェル・モネの遺贈(1966年)によって大きな『睡蓮』の作品群を所蔵しており、同館はそのモネ・コレクションを世界最大としています。

日本では、次の館が公式サイトで『睡蓮』の所蔵を紹介しています。

  • 国立西洋美術館(東京・上野):『睡蓮』(1916年)、『睡蓮、柳の反映』(1916年)
  • 地中美術館(香川県・直島):「クロード・モネ室」に晩年の『睡蓮』5点を恒久設置(『睡蓮の池』1915〜26年ごろ、『睡蓮』1914〜17年、『睡蓮-草の茂み』1914〜17年、『睡蓮の池』1917〜19年、『睡蓮-柳の反映』1916〜19年)
  • アサヒグループ大山崎山荘美術館(京都府):『睡蓮』5点を含むモネ作品8点を所蔵

どの館も展示替えや貸し出しがあるため、出かける前に公式サイトで展示状況を確認しておくと安心です。

『睡蓮』は全部で何枚ある?

決まった数はありません。数え方が所蔵館によって異なるためです。ナショナル・ギャラリーは、水の庭を描いたカンヴァスを約250点、そのうち水面の睡蓮を描いたものを約200点としています。オランジュリー美術館は、連作全体を300点近い絵画としています。

オランジュリー美術館の『睡蓮』の大きさは?

オランジュリー美術館によれば、大装飾画は8つの構成からなり、高さはどれも約2メートルです。描かれた面積はおよそ200平方メートル、展示室で見る人を囲む長さは100メートル近くになります。たとえば『柳のある明るい朝』は、高さ200cm、幅1275cmです。

地中美術館の『睡蓮』はどんな展示?

地中美術館の公式サイトによれば、「クロード・モネ室」には、モネが最晩年に描いた『睡蓮』のシリーズ5点が、安藤忠雄設計の建物に恒久設置されています。作品は自然光のみで鑑賞します。部屋の大きさやデザイン、素材も、モネの絵画と空間が一体となるように選ばれています。地中美術館は2004年に設立され、鑑賞は日時指定の予約制です。

ジヴェルニーの池はいまも見られる?

見られます。モネの家と庭は現在、フランス学士院の芸術アカデミーが所有しており、公式サイトによれば、2026年は4月1日から11月1日まで、10時から18時(最終入場17時30分)に公開されています。睡蓮は毎年、手入れや株分けが行われているそうです。

『睡蓮』と『印象・日の出』の関係は?

どちらもモネの作品です。「印象派」という呼び名の由来となった『印象・日の出』(1872年)は、モネが30代はじめに描いた港の風景です。オランジュリー美術館も、モネの紹介のなかでこの作品に触れています。『印象・日の出』から『睡蓮』の大装飾画まで、モネは50年以上にわたって、光と水を描き続けました。『印象・日の出』については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。

https://euphoric-arts.com/art-2/impression-sunrise/

まとめ

いかがだったでしょうか。クロード・モネの『睡蓮』をご紹介しました。

『睡蓮』は、モネがジヴェルニーにつくった水の庭を、30年近くにわたって描き続けた連作です。はじめは太鼓橋のかかる池の風景でしたが、やがて画面は水面だけで満たされ、空や木々は水に映る影として描かれるようになりました。

その到達点が、モネが国に贈ったオランジュリー美術館の大装飾画です。開館当初は関心を集めませんでしたが、第二次世界大戦後に「印象派のシスティーナ礼拝堂」と呼ばれ、20世紀の絵画とのつながりのなかで見直されました。

日本にも、松方幸次郎がモネ本人から買い求めた作品をはじめ、各地に『睡蓮』があります。作品の前に立つ機会があれば、まず水面に映る空の色を探してみてください。描かれていない空が、絵のなかに見えてくるかもしれません。

Euphoric " " の視点

『睡蓮』の池は、モネが川の小さな支流から水を引き込んで広げ、睡蓮を交配種に植え替えてつくったものです。池はその後も広げられ、水の庭はおよそ3倍の大きさになりました。

モネはその水面を、30年近く描き続けました。画面からはやがて橋や岸が消え、空や木々は、水に映る影としてだけ描かれるようになります。

描く対象を自分の手でつくり、その一つの水面を見つめ続けたことになります。遠くへ出かけなくても、手もとの小さな場所を深く見つめることで、世界はいくらでも広がっていくのかもしれません。

この作品を見に行くには

記事で紹介した『睡蓮』は、次の館などで公開されています。展示替えや貸し出しがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

NEW POSTS / 新着記事

開催中の展覧会いま行ける展覧会を、終了が近い順に157件 開催中/7日以内に終了 7件展覧会を探す
全国の美術館・博物館ガイド全国の美術館を、エリアから26館掲載美術館を探す