【徹底解説】マーク・ロスコとは?色の長方形で人間の感情を描いた画家の人生と作品を解説!

【徹底解説】マーク・ロスコとは?色の長方形で人間の感情を描いた画家の人生と作品を解説!
画像:Euphoric " " 編集部作成(作品画像は使用していません)

アートコンサルティング

こんにちは。ユアムーン株式会社 編集部です。

皆さんはマーク・ロスコという人物をご存知ですか?

20世紀のアメリカで活躍した画家で、大きな縦長のカンヴァスに、縁のやわらかい長方形をいくつか浮かべた絵で知られています。赤や黒、黄色の面が、画面の奥で静かに息をしているように見える作品です。

ロスコは「抽象表現主義」や「カラー・フィールド・ペインティング」の代表格として語られますが、本人はそのどちらの呼び名も認めませんでした。また、レストラン、大学、礼拝堂という3つの「部屋」のための絵を引き受けたことでも知られています。絵そのものだけでなく、絵を見る空間まで考え抜いた画家でした。

本記事ではそんなマーク・ロスコの人生と作品についてご紹介します。

マーク・ロスコって?

ロスコの画風の変遷を5段階で示した図。1930年代の都市の場面から、神話、具象の消去、柔らかい長方形、暗い色へと進む。
図:ロスコの画風の変遷

基本情報

本名マーカス・ロスコヴィッツ(Marcus Rothkowitz)。1940年ごろから「マーク・ロスコ(Mark Rothko)」と名乗り、正式に改名したのは1959年とされます
生年月日(没年月日)1903年9月25日〜1970年2月25日(66歳没)
国籍・出身アメリカ(1938年に市民権を取得)/ロシア帝国のドヴィンスク(現在のラトビア、ダウガフピルス)生まれ
学歴イェール大学に1921年から約2年(全額奨学金、のち退学)。1924年にニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに入り、ジョージ・ブリッジマンらに学ぶ。本人は自分を独学の画家だと考えていた
分野絵画(油彩、水彩、アクリル)、紙に描いた作品
傾向ニューヨークの抽象表現主義の画家たちの一人とされる。柔らかい縁の長方形を縦に重ねる形式で知られる
師事した人物・影響を受けた人物ジョージ・ブリッジマン、マックス・ウェーバーに学ぶ。シュルレアリスムの影響を受けた時期がある。友人にアドルフ・ゴットリーブ、バーネット・ニューマンら。ターナーへの敬愛を語った

ロスコと同じ時代のニューヨークの画家たちについては、以下の記事でも詳しくご紹介しています。

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この記事に作品画像がない理由

ロスコの作品は、没後70年を経過しておらず、著作権が保護されている期間にあります。そのため、この記事には作品の画像を1枚も載せていません。代わりに、図解、作品を所蔵・展示する場所の外観写真、公式チャンネルの動画、表で全体像をお伝えします。

ロスコの絵は、画面の写真を見るだけでは本来の印象が伝わりにくい作品でもあります。実物の前に立つことを前提に描かれた絵なので、記事の最後には、実際に作品に会える場所をまとめました。

経歴と作品

ドヴィンスクからポートランドへ(1903〜1923年)

ロスコは1903年9月25日、当時ロシア帝国の町だったドヴィンスク(現在のラトビアのダウガフピルス)で、マーカス・ロスコヴィッツとして生まれました。ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(NGA)の経歴によれば、両親はジェイコブとアンナ。教育熱心な家庭で育ちました。ブリタニカ百科事典は、ロスコを4人きょうだいの末っ子で、父は薬剤師だったと記しています。

10歳のとき、ロスコは母と姉とともにアメリカへ渡ります。先にオレゴン州ポートランドへ移っていた父と兄たちに合流するためでした。ブリタニカによれば、一家がそろってから約7か月後に父が亡くなり、子どもたちは家計を助けるために働くことになりました。ロスコは言葉をすぐに覚え、学業では優れた成績を収めたといいます。

1921年、全額奨学金でイェール大学に進みます。ただし、ブリタニカは、ロスコが校風になじめず約2年で退学したと記しています。

ニューヨークで、教えながら描く(1924〜1930年代)

イェールを離れたロスコは、ニューヨークへ移ります。1924年にアート・スチューデンツ・リーグに入学し、ジョージ・ブリッジマンやマックス・ウェーバーのもとで学びました。ただ、ロスコは生涯、自分を「本質的に独学の画家」だと考えていたとブリタニカは書いています。

1920年代後半から30年代は、絵だけで暮らせる時期ではありませんでした。NGAによれば、1929年から、ブルックリン・ジューイッシュ・センターの付属校で子どもたちに絵を教え始め、この仕事は20年以上続きます。同じ1929年には、画家アドルフ・ゴットリーブと出会いました(グッゲンハイム美術館ビルバオの年表)。

初めての個展は1933年、ポートランド美術館で開かれ、その数か月後にニューヨークのコンテンポラリー・アーツ・ギャラリーでも個展を開きます。ニューヨークの展示には、風景、裸婦、肖像、都市の場面が並びました(NGA)。1930年代半ばには、同じ志向の画家たちと「ザ・テン」というグループを結成し、1935年から1939年までに8回、一緒に展覧会を開いています。このころの絵は表現主義的でした。公共事業促進局(WPA)の仕事では、乗客の孤立を強調した地下鉄の場面を数多く描いています。

神話から、色の面へ(1940年代)

1930年代後半から1946年ごろまでのロスコの絵には、ギリシャ神話、「原始」美術、キリスト教の悲劇への関心が表れます。NGAによれば、シュルレアリスムの画家たちの影響を受け、自動筆記的な素描の技法で、人や動物をほのめかす、透きとおった抽象的な形を描きました。

1940年ごろには、名前を「マーク・ロスコ」に縮めています。1945年にはペギー・グッゲンハイムが運営するニューヨークの画廊「アート・オブ・ディス・センチュリー」で個展が開かれ、このときはシュルレアリスム的な作品が並びました。1948年には、画家のデイヴィッド・ヘア、ウィリアム・バジオティーズ、ロバート・マザウェルとともに「サブジェクツ・オブ・ジ・アーティスト」という美術学校を開きますが、翌年には閉校しています。

転機は1947年ごろです。NGAは、この年までにロスコがシュルレアリスムや神話的なイメージをすべて画面から取り除き、輪郭の定まらない形による非対象の構図が現れたと説明しています。そしてそれから3年ほどのうちに、2つか3つのやわらかい縁の長方形を、1色の地の上に重力を感じさせずに浮かべる、署名のような形式にたどり着きました。

『Untitled』(1949年)

NGAが所蔵する『Untitled』(1949年)は、この「完成した形式」が固まった直後の油彩画です。大きさは高さ約2メートルほど(204.15×168.6cm)。NGAの公式解説は、次のように画面を描写しています。縦長の画面で、黄色の地の上に、オレンジの細い帯、深い紫の帯、いちばん大きな黒い長方形、銅のような緑と錆びたオレンジの面が積み重なり、どの形も縁がやわらかくにじんでいる、というものです。

NGAは、ロスコが作品の意味を説明したがらず、しばしば題名をつけなかったことも記しています。この絵の色の対比は、ロスコが語った「悲劇、恍惚、破滅(tragedy, ecstasy, doom)」といった普遍的な主題を呼び起こすためのものだった、という解説です。

国際的な評価と、絵の見せ方(1950年代)

ロスコの名前は、1950年代に一気に広がります。1952年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)の「Fifteen Americans」に参加し、1954年にはシカゴ美術館で個展が開かれました。1958年にはヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカを代表して参加し、1961年にはMoMAで大規模な回顧展が開かれ、その後ロンドン、アムステルダム、ブリュッセル、バーゼル、ローマ、パリを巡回しました(グッゲンハイム美術館ビルバオの年表)。

ロスコは、絵の「見せ方」にも強いこだわりを持っていました。NGAの解説によれば、1949年以降の「完成した形式」の紙の作品は、額縁もガラスも使わずに見せるよう求めたといいます。NGAはロスコの言葉として、「絵は経験の写しではない。絵は経験そのものだ」という趣旨の発言も紹介しています(原文:“A painting is not a picture of an experience; it is an experience.”、参考訳)。

ロスコは、自分の関心の中心を、色や形そのものではなく人間の感情に置いていました。テート(Tate)は、ロスコの次の発言を紹介しています。「私が関心を持っているのは、悲劇、恍惚、破滅といった、人間の基本的な感情を表現することだけです」(参考訳)。ロスコ・チャペルの公式サイトも、ロスコが抽象表現主義にもカラー・フィールドにも属すると見られることを、一貫して否定していたと記しています。

部屋のための絵:3つの依頼

NGAによれば、ロスコは1958年に、レストランの壁画シリーズという最初の依頼を受けました。2つ目は1961年、ハーバード大学のホリヨーク・センターのための壁画。3つ目は1964年から1967年にかけて取り組んだ、ヒューストンの礼拝堂のための絵画です。

ロスコが引き受けた3つの依頼を比べた表。シーグラム壁画、ハーバード大学、ヒューストンの礼拝堂の依頼年、場所、結果を並べている。
図:ロスコの3つの「部屋」のための依頼

この3つは、結果がそれぞれ大きく違います。次の章から、順に見ていきます。

シーグラム壁画(1958〜1960年)

1958年、ロスコはニューヨークのシーグラム・ビルにあるレストラン「フォー・シーズンズ」のために、壁画を描く依頼を受けます。テートのプレスリリースによれば、シーグラム・ビルはミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンの設計による新築の建物で、当初の依頼は7点でした。ところがロスコは、最終的に30点のカンヴァスを描きました。

ロスコは、自分のスタジオに足場を組み、レストランの空間の寸法を再現して描いたと、テートは説明しています。作品の色は、それまでの明るく強い色から、えんじ色(マルーン)、暗い赤、黒へと大きく変わりました。ロスコ自身は、これらを「これまでに試したどんなものよりも沈鬱だ」と語っています(原文:“more sombre than anything I’ve tried before”、参考訳)。

ロスコがミケランジェロのラウレンツィアーナ図書館に言及した言葉も、テートは紹介しています。ミケランジェロは「見る人が、すべての扉と窓がふさがれた部屋に閉じ込められているように感じさせる、まさに私が求める感覚を実現した」というものです(参考訳)。ロスコは、これらの絵を、見る人が全身で没入する対象と考えていました。

ところが1960年、ロスコは契約を取り消します。テートの説明では、作品への思いが深まるにつれ、排他的な雰囲気のレストランは、この絵を置く場所としてふさわしくないと感じるようになったためです。

ロスコは1969年、このシリーズから9点をテートに寄贈しました。絵がロンドンに着いたのは1970年です。テートは、寄贈の理由として、ロスコがターナーの絵を深く敬愛していたことを挙げ、ターナー・コレクションを収める展示室の隣に飾られることを望んでいたと説明します。この9点は「ロスコ・ルーム」と呼ばれています。2026年10月時点で、テートのコレクションページは、シーグラム壁画の各作品をテート・モダンの展示「In the Studio」の一部として案内しています。

テート・モダンの外観。茶色のレンガの壁が斜めに積み上がる建物を見上げた写真。
テート・モダン(ロンドン)の増築棟の外観。撮影:DiscoA340(CC BY-SA 4.0)/出典:Wikimedia Commons

『Black on Maroon』『Red on Maroon』(1958〜59年)

テートが所蔵するシーグラム壁画の題名は、『Black on Maroon』(マルーンの上の黒)が5点、『Red on Maroon』(マルーンの上の赤)が4点です。制作年は1958年と1959年にわたります。題名が色の名前だけなのは、ロスコが絵に物語をつけたがらなかったことと重なります。暗い画面は、じっと見ているうちに、表面の層が少しずつ現れてくるとテートは説明しています。

ロスコは、こうした絵を描く手間についても語っています。「こういうデザインは単純に見えるかもしれないが、比率と色を正しく決めるのに、たいてい何時間もかかる。すべてが組み合わさっていなければならない。私は根っこのところで、配管工のようなものだと思う」(原文の一部:“I guess I am pretty much a plumber at heart.”、参考訳)。

日本にあるロスコ・ルーム(DIC川村記念美術館)

シーグラム壁画のうち、依頼のために描かれた関連作は、日本にもあります。千葉県佐倉市にあったDIC川村記念美術館には、ロスコの〈シーグラム壁画〉専用の展示室「ロスコ・ルーム」がありました。美術館の公式ページによれば、この部屋は2008年に増築された部屋の一つで、建築家の根本浩が設計しました。壁1面につき1点の絵を展示するため、部屋は変形七角形になっており、7つの壁のコーナーには丸みがつけられています。中央には鑑賞用のソファが1つ置かれていました。

照明が暗めだったのにも理由があります。公式ページは、ロスコが〈シーグラム壁画〉を描くために借りたスタジオが、天井近くの小さな窓から入る外光を主にしていたことに由来すると説明しています。ロスコは、天井を照らすことはあっても、画面に直接光を当てることはなかったそうです。薄く溶いた絵具を何度も塗り重ねた絵肌は、強い光を当てると陰影が消えてしまうためです。

青空の下に立つ、緑青色の円錐形の屋根をもつ灰色の円筒形の建物。DIC川村記念美術館の外観。
DIC川村記念美術館(千葉県佐倉市)の外観。撮影:Japan-Insider(CC BY-SA 3.0)/出典:Wikimedia Commons

2026年10月時点の公式サイトによれば、美術館は2025年3月31日をもって佐倉での運営を終了しました。美術館は、公益財団法人国際文化会館(東京都港区)との協業のもとで、2030年に運営再開を予定していると案内しています。また、DICと国際文化会館が公表した発表のタイトルには、建築ユニットSANAAが新しい「ロスコ・ルーム」を設計すると書かれています。つまり現在、佐倉でロスコ・ルームを見ることはできません。

フィリップス・コレクションのロスコ・ルーム(1960年〜)

アメリカのワシントンD.C.にあるフィリップス・コレクションには、シーグラム壁画とは別の、もう一つの「ロスコ・ルーム」があります。公式ページによれば、コレクターのダンカン・フィリップスは、1957年にロスコを含むグループ展を開き、その展覧会から『Green and Maroon』(1953年)を購入しました。1960年にはロスコの個展を開き、『Green and Tangerine on Red』(1956年)と『Orange and Red on Red』(1957年)を入手しています。

1960年、フィリップスは増築する建物の設計にあたり、ロスコの絵のための部屋を指定しました。ロスコ専用の空間を設けた、アメリカで最初の美術館だと、館は説明しています。部屋は小さく、壁1面に1点の絵を掛け、光を落として色の響きを引き立て、長く見られるよう椅子を置く構想でした。フィリップス自身が、この部屋を一種の「チャペル」と呼んでいたそうです。

1961年、ケネディ大統領の就任式の日は吹雪でした。ロスコはゴム長靴姿で美術館に来て、フィリップスと展示について話し合いました。ロスコは照明をさらに落とすことと、椅子ではなく簡素な木のベンチを置くことを提案しました。そのベンチは、今も部屋にあります。1964年には『Ochre and Red on Red』(1954年)が加わりました。

作品名制作年館への来歴(公式ページより)
Green and Maroon1953年1957年のグループ展から購入
Ochre and Red on Red1954年1964年に購入して追加
Green and Tangerine on Red1956年1960年の個展から入手
Orange and Red on Red1957年1960年の個展から入手

館は、この部屋がロスコ本人と協力して設計された、現存する唯一の展示空間だとも説明しています。2006年に新館(サント・ビルディング)が開くと絵は2階の新しい部屋に移されましたが、寸法、東西の向き、北側の窓の位置は1960年当時の設計のままです。

ハーバード大学の壁画(1961〜1964年)

2つ目の依頼は、ハーバード大学のホリヨーク・センター(現在のスミス・キャンパス・センター)の10階にある食堂のための壁画でした。ハーバード・アート・ミュージアムズによれば、ロスコは5点の大きなカンヴァスを制作し、1964年1月に設置しています。ほかに、設置されなかった6点目の壁画が、ケンブリッジに持ち込まれていました。

青空の下、灰色の外壁をもつ高層棟を下から見上げた写真。ハーバード大学のホリヨーク・センター。
ホリヨーク・センター(現スミス・キャンパス・センター、ハーバード大学)の外観。撮影:Daderot(CC0)/出典:Wikimedia Commons

ところが、食堂の床から天井までの窓から入る強い光が、ロスコの色を少しずつ退色させました。1974年3月に1点が、1979年4月に残りの壁画が取り外され、展示に適さないとされて収蔵庫に入ります。1988年の展覧会での研究では、5点すべてにロスコが使った赤い顔料「リトール・レッド」が不安定で、退色の一因になったことがわかりました。

2014年11月から2015年7月にかけて、ハーバード・アート・ミュージアムズは、この壁画を特別展で公開しました。カメラとプロジェクターを組み合わせた装置で、退色を補う光を画面に投影し、元の色を再現する方法です。元の色は、1964年のエクタクローム・スライド、昔の色票、そして設置されなかった6点目の壁画の実測値から割り出されました。展示では毎日午後4時に投影を止め、投影光のない壁画を見せています。絵そのものに手を加えない、非侵襲的な保存修復の提案でした。

Mark Rothko’s Harvard Murals: Insights – Kate Rothko Prizel and Christopher Rothko(Harvard Art Museums公式YouTube、2015年公開)

上の動画では、ロスコの子どもであるケイト・ロスコ・プライゼルとクリストファー・ロスコが、父の絵、制作の記憶、ハーバードの依頼、そして色を補う投影についての感想を語っています。

ヒューストンの礼拝堂(1964〜1971年)

3つ目の依頼は、アメリカのテキサス州ヒューストンにある「ロスコ・チャペル」のための絵画です。ロスコ・チャペルの公式サイトによれば、依頼したのは、ジョンとドミニク・ド・メニル夫妻でした。1952年の夏、夫妻はフランスで、フェルナン・レジェやアンリ・マティスが手がけた教会を訪ね、巨匠に自由を与えたとき、宗教建築で何ができるかを目にしたといいます。その経験から、1964年に、ロスコに聖なる空間をつくってほしいと依頼しました。公式サイトは、フォー・シーズンズのための絵が、夫妻にこの依頼を思い立たせたとも説明しています。

木々の向こうに見える、レンガ造りの四角い大きな建物。ロスコ・チャペルの外観。
ロスコ・チャペル(ヒューストン)の外観。撮影:WhisperToMe(CC0)/出典:Wikimedia Commons

ロスコは2年以上の試行と制作を経て、1967年に14点のシリーズを完成させます。公式サイトによれば、内訳は、えんじ色の地に輪郭のはっきりした黒い長方形を描いた7点と、紫の色調による7点です。部屋を照らす自然光は、ロスコが色の微妙な差を正しく見せるために重視したものでした。礼拝堂の建築は、フィリップ・ジョンソン、ハワード・バーンストーン、ユージン・オーブリーの3人が手がけています。NGAは、14点という数が、十字架の道行きの数に対応していると記しています。

礼拝堂の公式サイトは、ロスコの言葉も引用しています。「あなたが私に託した仕事の大きさは、あらゆる面で、私が前もって考えていたことを超えています。そしてそれは、できると思っていた限界の先へ自分を広げるよう、私に教えています」(原文:“…the magnitude, on every level of experience and meaning, of the task in which you have involved me, exceeds all of my preconceptions. And it is teaching me to extend myself beyond what I thought was possible for me.”、参考訳)。

礼拝堂は、ロスコの没後の1971年に開かれた開堂式で公開されています。公式サイトは、この礼拝堂を、特定の宗教の枠にとどまらない「静けさが動く」場所だと紹介しています。広場には、バーネット・ニューマンの彫刻『Broken Obelisk』が置かれ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師に捧げられています。

晩年(1968〜1970年)

1968年ごろからロスコは、カンヴァスにも紙にもアクリル絵具で描くようになり、使う色は茶、灰色、黒へと絞られていきました(NGA)。NGAの解説によれば、紙の作品の一つで、白い紙の縁を硬い境界として残した試みが、後期の「ブラウン・アンド・グレー」シリーズの重要な展開につながりました。ロスコは生涯に、紙に描いた作品を1,000点前後残しています。ロスコ自身、これらを自分のいちばん良い仕事の一部と考えていました。

1968年には、全米芸術文学協会の会員に選ばれ、翌1969年にはイェール大学から名誉博士号を贈られています。同年、マーク・ロスコ財団も設立されました。1970年には、ロンドンのテートが、ロスコのための展示室を設けました(グッゲンハイム美術館ビルバオの年表)。ロスコは同年2月25日、ニューヨークで自ら命を絶ちました(NGAの経歴による)。

年できごと
1903年9月25日、ドヴィンスクで生まれる
1913年10歳でアメリカへ渡り、ポートランドで暮らす
1921年全額奨学金でイェール大学に進む
1924年アート・スチューデンツ・リーグに入学
1933年ポートランド美術館で初の個展
1945年アート・オブ・ディス・センチュリーで個展
1947年神話的・シュルレアリスム的なイメージを画面から消す
1958年シーグラム壁画の依頼を受ける。ヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカを代表して参加する
1960年シーグラムの契約を取り消す。フィリップス・コレクションがロスコの部屋を指定する
1964年ハーバードの壁画を設置。ヒューストンの礼拝堂の依頼を受ける
1967年礼拝堂の14点が完成
1969年シーグラム壁画の9点をテートに寄贈
1970年シーグラム壁画の9点がロンドンに到着。テートがロスコのための展示室を設ける
1971年ロスコ・チャペルの開堂式

ロスコの絵を見るときのヒント

ここからは、書き手の意見を交えて、ロスコの絵を見るときのヒントを3つお伝えします。いずれも、これまでご紹介した美術館や礼拝堂の公式な説明に沿ったものです。

ロスコの絵を見るときの3つのヒント。しばらく絵の前に佇む、光を抑えた環境で見る、色の関係だけで見ない、の3点を示す。
図:ロスコの絵を見る3つのヒント

1つ目は、しばらく絵の前に佇むことです。DIC川村記念美術館の公式ページは、ロスコ・ルームに入って絵の前にしばらく立つと、最初は沈んだ赤茶色の面にしか見えなかった画面に、深みと奥行き、あるいは輝きを感じられると書いています。テートも、重ねられた表面の微妙さが、時間をかけてゆっくりと現れてくると説明しています。すぐに「わかる」ことを求めないのが、ロスコの絵に向き合う基本だと考えます。

2つ目は、光を抑えた空間で見ることです。フィリップス・コレクションは、ロスコの部屋に落とした照明と簡素なベンチを用意しました。川村記念美術館の公式ページも、強い光では陰影が消えてしまうと説明していました。展示室が暗めなのは、作品を隠すためではなく、本来の姿を見せるための工夫だと思います。

3つ目は、色の組み合わせだけで見ないことです。ロスコ自身が、基本的な人間の感情を表現することに関心があると語っていました。きれいな色だと感じることも、もちろん一つの入り口です。ただ、ロスコが望んでいたのは、その先にある、見る人自身の感情との出会いだったのではないでしょうか。

ロスコの絵に会える場所の図。ロンドン、ワシントン、ヒューストン、そして川村記念美術館の7点の4か所を円形に並べている。
図:ロスコの絵に会える場所

まとめ

いかがだったでしょうか。マーク・ロスコの人生と作品について、ご紹介してきました。

ロスコは1903年にドヴィンスクで生まれ、10歳でアメリカへ渡り、イェール大学を経てニューヨークで画家になりました。1930年代には都市の場面を、1940年代には神話やシュルレアリスムに近い絵を描き、1947年ごろからその要素を画面から消して、やわらかい縁の長方形を重ねる形式にたどり着きます。

1958年以降は、レストラン、大学、礼拝堂という3つの「部屋」のための絵に取り組みました。レストランの依頼は取り消され、大学の壁画は退色して長く収蔵庫に入り、礼拝堂はロスコの没後に開堂します。それぞれの結末は違いますが、どの場合もロスコが考えていたのは、絵と、それを見る場所を一つのものとして整えることでした。

ロスコの絵は、画面の写真だけで語ることが難しい作品です。この記事をきっかけに、実際に作品のある場所を訪ねてみてください。

Euphoric " " の視点

ロスコは1958年、レストラン「フォー・シーズンズ」のための壁画の依頼を受け、当初7点の依頼に対して、最終的に30点のカンヴァスを描きました。ところが1960年、契約を取り消します。テートの説明では、排他的な雰囲気のレストランは、この絵を置く場所としてふさわしくないと感じるようになったためです。

ロスコはのちに、このシリーズから9点をテートに寄贈しました。ターナー・コレクションを収める展示室の隣に飾られることを望んでいたといいます。フィリップス・コレクションでも、照明をさらに落とすことと、簡素な木のベンチを置くことを提案しています。

作品の受け取られ方は、どこで、誰の作品の隣で、どんな光のもとで見られるかによっても変わると考えます。ロスコの判断は、つくったものの居場所を選ぶことも、作り手の大切な仕事の一つだと教えてくれるのかもしれません。

この作品を見に行くには

記事で紹介した作品は、次の館などで公開されています。展示替えがあるため、最新の情報は公式サイトをご確認ください。

なお、DIC川村記念美術館の7点は、2026年10月時点で佐倉での展示を終えており、2030年に国際文化会館での運営再開が予定されています(美術館公式サイトのお知らせによる)。ハーバード大学の壁画は、現在の展示状況を公式サイトでご確認ください。

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